【読書】夜の谷を行く

桐生夏生は昔から好きな作家の一人だ。様々なジャンルの小説を書く人だが、その中でも特に歴史的事件や人物をモデルに書いた作品の背景がわたしの好みに合致しているのだ。
わたしは小説を読むのが大好きだが連載中の作品は読めない。これは小説に限らず、漫画でもドラマでもとにかく続き物が【続く】のうちは観たくない。面白ければ面白いほど、先が知りたくなるからだ。
最初から最後まで一気に把握しないといけない性格だから、本も読み始めたら必ずその日のうちに読み終える。読み進めて合わないな、と思った本は最初の数ページで放り出して他の本を読む。
それでも、蔵書となった本はいつか年月が経って改めて手に取ると、昔は覚えなかった興奮を感じて読み進めることが出来る場合もある。だから本は高いと思いつつも買ってしまう。
わたしは読書が好きだが、先だって述べたように連載物を連載途中で読むことが出来ないため、新刊に詳しいわけではない。
それどころか書店に行くまで新刊のタイトルさえも知らないことが多い。また、新刊で人気が高い作品でも自分の好みに合わなければ読まないので、けして本をよく知っているわけでもない。
それでも、最近では本屋に行かなくてもAmazonで色んな本が買えるから新刊を購入する機会が増えたと思う。ネットを使って何かを検索している最中に面白そうな本に出会ったら、すぐに買える世の中。便利だが散財のペースが増えてしまって少し罪悪感を覚えることもある。
「夜の谷を行く」も同じようにネットサーフィンをしているときに偶然見つけた本だった。
以前、2008年に公開された『連合赤軍あさま山荘への道程』という映画を観てからずっと、学生運動や共産主義活動終焉のきっかけになったと言われるこの事件に多大な興味を持ち、様々な資料を集めてきた。
あれから10年近く経ったいま、もう『連合赤軍あさま山荘への道程』を撮った若松監督はこの世にいない。2012年には事件後40年ということでTVの特集もいくつかあったようだが、世間を震撼させ大きな影響を与えたあの事件も、もはや知らない若者が増えたことだろう。
しかし、事件から45年、革命という言葉も遠くなってしまったが、今まだ事件の当事者は何人も存命している。年月が経ち、現代の若者には到底、事件動機も内容も何もかもが理解できないだろう。わたしにもその心情は分からない。
連合赤軍関連の事件以外にも当時の学生運動を総じて「テロリスト」と読んでしまうのは簡単だ。わたしを含め、おそらく今の若者が事件を知って一言で事件の加害者を言い表すならそう表現するだろう。しかし、テロリストはいつだって革命が成功すると勇者になるわけで、事件の渦中にいた人と関係のない人とでは見方も視点も異なるから議論は非常に難しい問題だと思う。
そんな中で、まさに事件が風化していく中で、全てを忘れたような生き方をしてきた事件の当事者達の今と昔、そして忘れようにも忘れられない、どれだけ歳月を重ねてもつきまとう事件の影を描き出しているのが、この「夜の谷をいく」である。
わたし自身は、どうしても自己を正当化するような主人公に共感できないし、かと言って事件の概要もほとんど知らぬまま批判する若い世代の主人公の姪っ子にも共感はあまりできない。これはもちろん、そもそも自分の身内に刑事事件の加害者という立場になったことがある人物自体存在しないから分からないのかも知れないが、とにかく出てくる登場人物すべてを批判的な視線でみてしまえる、そこがこの小説の何よりもの魅力なのかもしれない。なぜなら、事件は加害者と被害者でまったく印象が異なるし、時代が変わればやはり感じ方も変わってくるもので、登場人物すべての考え方や捉え方が違うからこそ、虚構の世界である小説の人物らに生き生きとした命と人間らしさを与えているからである。
久々に「夜の谷を行く」を読み、改めて『革命』とはいったい何なのか、考えさせられた。
平和な島国の日本人にはあまり関係のない話に感じるが、今でも中近東やアフリカを中心にテロ集団による過激な行為が日常的に行われているわけで、その行為は正直なところ仲間内で殺し合いをした連合赤軍事件以上に、関係のない人々を苦しめているから最悪なもので一緒に語ることは出来ないが、過去にあった出来事として忘れ去られてしまうことも違うとわたしは思っている。また、事件の概略だけを知って語ることも許されず、双方の言い分をしっかりとこれからも吟味して、研究していきたいと感じた。

火星人ペガサスの日常

読書と旅行と愛犬&ウサをこよなく愛する一般人。 こっそりタロット占い師をやっています。

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