July 1st 都議選&兵庫県知事選&藤井四段
浜崎あゆみの「July 1st」という曲が昔、大好きだった。
サビは『明日晴れたら あの海へ行こう』から始まるフレーズの繰り返しだが、Aメロの歌詞が夏の始まりを簡単に思い浮かべられる描写でセンスがあるなぁと感じたものだ。
『青い空が少しずつ
オレンジ色に傾いて
やがてそれが混ざり合い
街を深く染めていく』
『頭上にはただ風が吹き
雲の切れ間光射し
寄せて返す波音に
全て洗い流される』
(2002年)
あの頃のわたしは夏が大嫌いで海にも行かなかったけれど、10年以上の月日が流れ、夏が好きになり海へ行くようになった。十年一昔とはよく言ったもので、それだけの歳月で人は見た目も中身も大きく変わるものだなと感じさせられる。
先日、福岡で会った親戚の中学生から「浜崎あゆみに似てる!」と言われた。地元福岡出身の大物歌手の名前を出してくれたということは、褒め言葉だと受け取って良いのだろうか。しかし複雑な気分である。
なぜなら、いまアラフォーのわたし達世代にとって浜崎あゆみは憧れの存在だったが、いまわたし達と同じようにアラフォーを迎えた浜崎あゆみの姿を中学生は果たして「憧れの存在」と捉えているのか疑問だからである。
実際、いまの浜崎あゆみは少なくともわたしから見ると、20歳頃にあれほど憧れた容姿は完全に失われ「おばさん」にしか思えない。
歌声も、若者から絶大な人気を集めていた過去とは大違い、そんな彼女に似ていると言われて喜んで良いのやら「あぁわたしも太ったしな」とガッカリすべきなのか分からず、反応に困ってしまった。
憧れの存在といえば、2017年のJuly1st、大きな政治的ニュースが世間を賑わせた。
今日行われた都議選で『小泉チルドレン』ならぬ『小池ファースト』と呼ばれる親小池派が過半数の議席を取得し、問題続きの自民は歴史的敗戦を経験することとなった。
小池百合子都知事の人気と力添えで新たなる都議に選ばれた若手達は、彼女を信奉して止まない。
ニュース映像を見ていると、その心酔ぷりに思わず「気持ち悪い」という感想を抱いてしまうほどだったが、果たして名もないおニューの都議達が小池氏に真っ向から反対意見などを述べられる日は来るのだろうか。
本来の議会制は党派が同じであったとしても様々なディベートを行う場であるし、個々の都議が自ら主張を持って臨むべきなのだが、どうにも選出された都議達からは小池氏への尊敬の念以外に政治的な強い信念を感じることは出来なかった。
日本は島国で単一民族であるから簡単に「右向け右」になってしまう。そんな中では新しい風を吹かせたように見えても、結局は強い誰かの意見になんとなく流されて独断場になっていく未来しか今のところは想像できないのである。
ただし都議選はあくまで地方政治であり、中央政治とはなんら関係なく行われるはずなので東京都に在住していないわたしには参政権もかく、関係のないネタだ。
一方で、同日に行われ著名人が立候補していたにも関わらず、都議選の騒動にかき消されてしまった兵庫県知事の選挙は、生まれ育ち、現在も住んでいる場所の地方選であるからもちろんしっかりと「選ぶ権利」を執行させていただいた。
150年前の1867年、明治維新前夜に外国に向けて開港された神戸港。記念すべき150周年に行われた兵庫県知事選は当初から出来レースのような感覚だったことは否めない。
そもそも兵庫県は神戸港を開港したことにより多大な財源を必要としたため、摂津・播磨・丹波・但馬・淡路という5つの異なる地域を無理矢理くっつけて作った県であり、日本一県民性のない県と言われるほどまとまりのない特殊な地域だ。
日本海側から瀬戸内海側まで日本列島を分断して跨る兵庫県は、県北と県南部で大きくイメージが異なり、気候も人々の気質も産業も全てが違う。
兵庫県といえば大阪に近く都会的な瀬戸内海側のイメージを持つ人が多いが、日本海側には温泉もあればスキー場もあり、日本の原風景のような美しい自然が広がっている。
もともとが摂津国だった尼崎から神戸にかけては大阪人の気質に近いものを持ち、播磨国だった姫路や赤穂は中国地方の人々に近く、但馬国だった県北部はどちらかというと山陰や北陸の人々に近い。丹波国だった篠山市や朝来市など県中央部は京都に近く、淡路島は四国の人々に近い。
言葉も一括りに「関西弁」とまとめられがちだが、実のところ関西弁を使うのは瀬戸内海側の人間だけで、それも姫路より西に行くと岡山の方言に似てくる。
県北部は山陰の方言に近くなり、さらには最近まで瀬戸内海側から日本海側へ抜ける交通網が発達していなかったため同じ県内を縦に移動するより、隣県に移動する方が早いという不思議な現象が日常茶飯事に起きる兵庫県では、兵庫県への帰属意識よりも自分が生活する市町村へのそれのほうが大きい。
その傾向は150年間変わらず、県への帰属意識が低い中でなんとか県政をまとめるため初代知事に就任した伊藤博文以降、ほぼ中央の官僚出身知事が舵取りをしてきた。
もともと別の文化圏だったまとめようにもまとまらない兵庫県という巨大な地方政治のトップに立ちたがる人間は、思いの外少ない。
そのためか、これまで兵庫県知事はなんと55年間ものあいだ中央出身の官僚経験者がその役を担っており、基本的に再選、再々選されることがほとんどだった。
現職の井戸知事は今年の知事選で選出されると5期目になるが、その前任だった貝原知事も、さらにその前も4期務めていることから、立候補者の少なさと知事の壁の分厚さを感じるのだが、これは得てして兵庫県民の地方政治への関心の低さが垣間見えると言って良いだろう。
他文化圏に跨る兵庫県の場合、市町村単位でのまとまりのほうが強くどうしても県政のイメージを掴むことが出来ないのも、県民の政治に対する意識の低さに繋がっているような気がする。
そんなこんなで、毎度立候補者の少ない兵庫県知事だが、今回は珍しく4名の立候補者がおり、その中には関西で人気のある「そこまで言って委員会」というテレビ番組に出演していた辛辣な意見を述べるコメンテーター、勝谷氏の名前もあった。
現職知事がもし当選すると5期目になってしまう任期の長さから、県政を一新するためにも期待を寄せられていた新しい立候補者達。中でも知名度の高い勝谷氏は有望株だった。
しかし、自分自身がいざ投票しようと考えてみると、どうにも現職知事を含めてマニフェストや信頼性がイマイチに思えて、本当は長期政権になる現職知事の当選を阻みたい気持ちながら、どうにも他の立候補者達が知事になったときを想像することが出来ず、アレもダメ、コレもダメで悩ましい事態となってしまった。
おそらく同じように4期務めた(途中で辞めているので在位期間は14年)石原慎太郎の君臨していた東京都のように、兵庫県も現職知事が退任したあとポロポロと問題点が噴出してくるだろう。現在の東京都を取り巻くニュースを目にしていれば、そんなことは一般民でも簡単に理解できる。だからこそ、現職知事には入れたくない、という兵庫県民は多かったのではないだろうか。
わたしの周囲でも、ほとんどの人が悩み、「立候補者の主張が曖昧だったり弱かったりでピンと来ない。かと言って現職は長すぎて入れるのもなんだかなぁ」と言っていた。
結果的に、勝谷氏と現職知事の一騎打ちに近い勝負となったが、勝谷氏の改革マニフェストがあまり響かなかったためか、はたまた県民性の問題なのか、現職知事の5期目が確定した。
個人的な意見としては、やはり勝谷氏は現職知事の県政を批判し、理想を語ってくれたが今すぐに実現するのか難しく感じるような内容としか思えず、また、年齢的に例えば現職の三重県知事や大阪府知事に当選したときの橋下氏のように、明らかに若い立候補者であれば改革を期待して若い世代の票を集めることが出来たかもしれないが勝谷氏に関しては他の立候補者とそれほど大きな年齢差はないように思えてしまい、改革を推進するには年齢を取りすぎているのではないかと感じた部分がある。
今年の兵庫県知事選に関しては、どうしても他の人間が知事になったときの県政を想像し得なかったため、とりあえず当たり障りない現職知事には当たり障りない県政を展開してもらいながら、四年後の知事選で若手の立候補者が何人も立つようになれば良いな、と次世代に期待している。
次世代といえば、都議選で盛り上がる中、マスコミがもう一つ注目していた将棋の戦いは負け知らずの藤井四段の連勝を、少しお兄さんの佐々木五段がついにストップさせた。
佐々木五段は22歳、充分若手の世代であるが、さらなる若手となる14歳の台頭に危機感を覚え「世代の意地」を見せた。
14歳と22歳の激しい攻防戦は、将棋の世界では珍しく全国ネットの民放で中継され、そのプレッシャーの中で若手の2人はよくぞ戦ったと思う。真剣勝負ゆえ、実力に関しても精神理力に関しても、どちらも優劣あったとは思えない。
将棋という世界にスポットが当たり、次世代の活躍ぶりを見るのは楽しいが、反面なんでもかんでも流行で追い回すマスコミに潰されないよう、くれぐれも自分のペースを大切にして欲しいと願うばかりである。
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