2017.4.14 祖母との最後の思い出
膵臓がんで入院した祖母のこと。
2017年1月9日〜16日まで、娘(わたしの母)、孫(わたし)、孫の夫(わたしの夫)と7泊9日のイタリア旅行を楽しむ。
とても元気で病の影は一切見当たらない、明るく華やかな笑顔の写真ばかりが残っている。
2017年4月には祖父と韓国旅行、7月にはやはり祖父と母、わたしとのハワイ旅行を予定していた祖母。自分でも身体の不調はまったく感じていなかったと思う。
2017年3月25日前後より、急に食欲減退や消化不良、倦怠感が現れ自宅で臥せっていることが多くなる。
2017年3月28日〜30日まで、翌月の韓国旅行に向けて体調を戻すべく通院、合間に祖父とデートを楽しむが体力の著しい低下を感じて再度病院へ。
2017年3月31日、食欲低下や下痢などの症状で検査を行うため消化器内科へ入院。
しかし、このときは83歳という年齢からくる疲労程度の認識しかなかった。
2017年4月1日、胃腸の検査を行ったが異常なし。
血液検査により肝臓の数値が非常に悪いことから、CT検査を行うことになった。
2017年4月3日、CT検査の結果が祖父と叔母に伝えられる。この時点で膵臓がん末期、肝臓への転移と腹膜播種がみられ治療不可といわれた。
余命は早くて1ヶ月、長くても3ヶ月とのこと。
2017年4月4日、母とわたしがお見舞いへ行く。
祖母への告知及び緩和ケア病棟の案内を受ける。
告知に関してはどうするか母、叔母とともに相談したが、結局、祖母が帰宅ではなく入院を希望していること、緩和ケア病棟への入院は患者本人への告知が大前提であることから、告知することに決めたのだ。
ただ、余命については祖母本人への宣告はされなかった。
2017年4月7日、緩和ケア病棟へ移動。
わたしと夫でお見舞いに行くと、思いの外快適そうなお部屋で祖母は少し安定している様子だった。
4月8日〜9日は実家で1泊した母が付き添う。
祖母は入院直前まで元気だったのに、入院して緩和ケア病棟へ移動したあたりから日に日に、急激に悪くなっていくと、帰ってきてから母に言われ、「余命1ヶ月くらいなのかもね」となんとなく覚悟を決めた。
4月11日は母と京都へ祈願しに行った。
入院した当初の願いは「小康状態を取り戻して一時退院でも出来たら…」だったが、今の状況ではそれさえも厳しいかもしれないと考えて、とにかく祖母が苦しくないように、辛くないように生命の限り長生きできるようにと願った。
4月12日は母のみお見舞い、倦怠感が酷くなってきているが低め安定。
2017年4月13日、余命1週間前後と医師より宣告される。今後、意識混濁やせん妄が起こる可能性があると言われ、実際、夕方頃には叔母しかいない病室で「後ろに誰かいるの?」と聞かれ、少しせん妄状態になっていた。
翌14日には母とわたしでお見舞いに行く予定だったため、意識がハッキリしていないかも知れないけど、と13日の夜に叔母から母へ電話があった。
知識としては、がん末期のせん妄状態や肝転移による肝性脳症などの症状を知っているが、目の当たりにするかもしれない状況に直面するのは初めてだ。
覚悟を決めて、それでも手を握ったり、話しかけたりして、残された時間をたっぷりと使おうと思っていた。
しかし、14日のお昼頃にお見舞いへ行くと祖母の意識はハッキリしており、ちょうどわたしが病室に入って暫くした頃には「歯磨きしたい」と言い、歯磨き粉をつけた歯ブラシを渡すとしっかりと自分の手で握って歯を磨いたりも出来ていた。
看護士によるケアのあと医師が来た時には「トイレをした」「歯磨きもしましたよ」「暑い」など自分の口で状態を伝えていた。
医師から「氷を口に含むと気持ち良いかもしれないですよ」と言われ、早速用意すると元気良くバリバリと噛み砕きながら一気に2〜3個食べる祖母。
そのバリバリという音に驚いて、「おばあちゃん、歯が丈夫なのね!」とわたしが言うと、祖母は元気なときと同じようにちょっと自慢気な顔をして「そうなのよ!」と微笑んだ。
それから、氷を食べる祖母を見ながらベッドの横に腰掛けたわたしが手を握ると突然、それまでほとんど開いていなかった目をしっかりと開けて祖母は喋りだしたのだった。
「ひ孫、見たかったけどね、ごめんね」
あぁ、祖母は分かっているんだな、残された時間が短いことを。
そう感じたわたしは、「うーん、そうよねぇ、年齢的にはマズいけど…去年結婚したばっかだからもうちょっと旅行行ったり好きなことして遊びたいんだもん(笑)」と笑いながらも、これまで堪えていた涙を抑えきれず、祖母に抱きついて号泣してしまった。
「そうだね、今は40歳くらいまで好きなことしてからでも間に合うよ。
いろいろあったけど、結婚できて良かったね。
●●君(わたしの夫)と仲良くしてね。」
謝る祖母は、あたたかい手でわたしの頭を撫でてくれた。
「もっと遊びたかったね、ごめんね。
でもイタリア一緒に行けて良かった。
ありがとね、行ってくれて。
●●君も一緒に行ってくれて、ありがとね。」
わたしの頭に手を置いて、ゆっくりと撫でながらまた謝る祖母。
それから、ちょっと悲しそうな顔で腕を上げて、
「ほら、食べれてないから、こんなにシワシワになっちゃって。」と呟いた。
祖母はいつも身綺麗にしていて、見た目も若々しく、イタリア旅行のとき一緒に撮った写真では、わたしと親子で十分通じるほどだった。
入院してからも、素敵なスカーフを巻いたり、口紅をつけたり、オシャレに気をつかう祖母だったから、ちょっと痩せてしまったのが辛かったのだろう。
だから、わたしは祖母の頬に手を当てて、
「そんなことないよ。お肌ツルツルだし、顔はふっくらしてて綺麗。おばあちゃんはいつも綺麗よ。」
と言った。
抗がん剤治療をしていないからか、もともとの顔立ちなのか、3週間近く食事がまったくとれない苦しい状況にも関わらず、祖母は穏やかな丸顔を保ったままだった。
わたしの言葉に、「あら、そうかしら?まぁおばあちゃん、顔はもともとふっくらしてるからね。」と笑った。
両方のほっぺに笑窪が出て、余命1週間とは思えないほど可愛い。
そう、このときの祖母は目に不思議なほどの力が宿っていて、瞳が輝いていた。
明るくて元気で、お茶目で、とてもしっかりしているのに抜けていて、どこか良い意味で子供っぽさをいつまでも残している女性だった。
しんどいはずなのに、何故だかこの瞬間、祖母は元気なときの、いつもの祖母らしいお茶目でちょっぴりおどけた様子を見せながら喋ってくれていた。
「イタリア行けて、本当に今まで頑張ってくれてる。わたし大満足だよ。
おばあちゃんの生き方を近くで見て、いろんな趣味を持って人生満喫して、勉強になってる。
83歳で親子三代、孫夫婦とイタリア旅行できるなんて、そんなおばあちゃんは、わたしたちの誇りだよ。」
話しながらも泣きじゃくるわたしの頭に手を伸ばし、また慰めてくれた祖母。
「…なんか大泣きしてごめん。でも、これは悲しいからじゃなくて、おばあちゃんと旅行行っていっぱい遊んで、いっぱい話して、今こうしてお話できるのがとても幸せで嬉しくて泣いてるの。
憧れの素敵なおばあちゃんの孫で良かった、大好きだよ!ありがとうね、本当にありがとう。
疲れたでしょ?ゆっくり休んでね。」
祖母は、何度も頷いて、静かに頭を撫でてくれた。
最後に、もう一度握手をして、「ありがと。またね。」と言って病室を出た。
わたしは、あたたかい祖母の手を一生忘れることはないだろう。
もしかすると、まだ意識のハッキリした状態で会えるかもしれない、出来ればそうなって欲しい。
でも、祖母と孫はもともと、毎日顔を合わす関係ではなかったから、ハッキリと話せるのは今日が最後かもしれないということも、心のどこかで考えていた。
だから、お別れの言葉みたいなのが自然と口をついてきたとき、わざわざ隠そうとは思わなかった。
次にきたとき、どんな状態か、分からないなら少し早くても出来る時に話して、出来る時に感謝の気持ちを伝えたかった。
わたしと話した後、祖母は力尽きたように眠りに入った。
結果的に祖母を疲れさせてしまったのかもしれない。
でも、あれだけ話をして自分の気持ちを伝えることが出来て、わたしにとって本当に良い時間を過ごせた。
最後まで、祖母は祖母で、わたしに愛情をかけてくれたんだなぁ、本当にありがたい。
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